批評家/キュレーター。専門は芸術学。モダニズム以降の芸術の可能性を探るため、美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション/企画:「DE/construct: Updating Modernism-阿木譲をめぐる3つのプログラム」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「Trans/speed, Dub/paint-樋口朋之」art trace gallery(2015)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)。埼玉県立近代美術館学芸員(1991-2021)としての主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
撮影:久家靖秀
展示風景、2F展示室、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明
Space Age Love Song - 映像を散歩する9つの方法
2024年2月1日、開幕を翌日に控える「恵比寿映像祭2024 月へ行く30の方法」が、私の中で幕を開ける、地域連携プログラム、石原友明展「サッケード残像」(MEM)によって。投げ上げられたカメラが撮る《眼投げ。》に「目を奪われる」、ロケットに装着されたカメラが捉える映像のようだ。私の身体から離脱した眼球が、宇宙空間へと発射され、月を見るかもしれない。その時、私は「月へ行く」ことができたのだろうか?これまでの恵比寿映像祭(以下、映像祭と略記)の記憶が駆け巡り、第2回「歌をさがして」が呼び起こされるからだろうか、「Space Age Love Song」 *1 が脳内に響いている。

展示風景、石原友明《眼投げ。》2022年、「石原友明 展|サッケード残像」MEM 恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:福永一夫 ©Tomoaki Ishihara, courtesy of MEM
映像祭は今回で16回を迎えるが、映像祭に先立つ「映像をめぐる七夜」(2008)と「イマジネーション 視覚と知覚を超える旅」(2008)を企画し、映像祭を立ち上げた岡村恵子 *2の功績を再認識する。第1回「オルタナティヴ・ヴィジョンズ」(2009)、第2回「歌をさがして」(2010)、夢や記憶のような映像をテーマとする第3回「デイドリーム ビリーバー!!」(2011)、映像の物質性や身体性をテーマとする第4回「映像のフィジカル」(2012)、どの回も「映像」と衒いなく向き合う高揚感に満ちている。「Space Age Love Song」と「デイドリーム ビリーバー!!」が共鳴し、「Moonage Daydream」 *3 を呼び起こす。

展示風景、3F展示室、金仁淑《House to Home》2021、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明
2月8日、金仁淑の公開インタビュー。田坂博子(恵比寿映像祭2024キュレーター[企画統括]/東京都写真美術館学芸員)と兼平彦太郎(共同キュレーター)と並ぶ金は途中で席を立ち、質問しながら二人を撮影する。話を聞くうちに、兼平が今回の企画チームに参画していることがわかる *4。3階の「コミッション・プロジェクト」(以下、CPと略記)で金が展示しているのは、伝統の保存と新しい文化の融合に着目した作品と、家族の範疇を問う作品であり、コミュニティの問題を深く考えさせる映像となっている。田坂と兼平への公開インタビューは、後者の作品に追加されるという。

2月9日、パフォーマンス風景、2階展示室、良知暁《「シボレート/schibboleth」をめぐる断章》恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明
2月9日、良知暁のリーディング・パフォーマンス。映写機の光と音、映写される言葉、朗読が始まり、緊張感が漲る。映像の空間に響く人の声、「この一節をひとつの詩として持ち歩く」という言葉が、忘れ難い。止まった時計は、良知が述べるように、東松照明の写真を想起させる。「月へ行く」方法を考える、それは、分断という言葉に象徴される地上的な区分けを無効化する手段でもあるだろう。すべての人類と同じく、この星に生を受けた存在として、私は地球にいる、「I’m On Earth」 *5、そのことを自覚する。
金と良知に限らず、多くのイヴェントが2階の展示室で行われることに驚く。仮設壁のない開放的な空間が、それを可能にする。東京都写真美術館(以下、写真美術館と略記)で仮設壁のない展示を見た記憶はなく、暗い閉域が出現しやすい映像祭であればなおさら、この空間は圧倒的に新鮮である。壇に登らない登壇者(出演者)と、自由に振る舞う聴衆は、鑑賞の妨げにはならないようだ。展示を見る観客は、イヴェント中も、各々のペースで展示を見ている。イヴェントの聴衆も、時折、周囲の展示を見回したり、鑑賞する観客を眺めたりしている。この独特の空気感は、今回の映像祭の大きな特徴となっている。

2月3日、パフォーマンス風景、2階展示室、エヴェリン・タオチェン・ワン《レイヤー・オブ・ヴォーカリゼーション》恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明

2月11日、パフォーマンス風景、2階展示室、山/完全版、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明
「集合知的な空間」(公式ガイドより)と表現される2階の展示には、写真美術館のコレクションも含まれ、展示作品は狭義の映像(動画)に限定されない。関川航平、エヴェリン・タオチェン・ワン、山/完全版らの上映やパフォーマンスもこの空間で遂行される。ここでは、植物にアルファベットを教えるジョン・バルデッサリの映像も、猫にインタビューをするマルセル・ブロータースのサウンド・インスタレーションも、その場で起きている出来事に立ち会っている臨場感を醸し出す。多様なフォームを纏うライヴネスに満ちたこの空間において、映像は、記録や再現にとどまらず、現実の時空における出来事として出現する。

展示風景、「彼方の世界」AL 写真:住吉智恵
2月10日、「月へ行く30の方法」への意識が深まる、地域連携プログラム、「彼方の世界」(AL)によって。作品の強度、明快なコンセプト、冴え渡るキュレーション。火星の隕石を砕いた顔料を用いた大舩真言の作品は、現世的な感覚を超越する時空において輝きを放つ。惑星の運行などを示すために用いられたという機械仕掛けの模型に着想を得た狩野哲郎のモビールは、無重力空間を暗示する。火星が、惑星が、第7回「惑星で会いましょう」(2015)を呼び起こし、「VÉNUS」 *6 が脳内再生される。
世界各地で同時に月面の映像を見る篠田太郎のプロジェクトは、地上的な意識を相対化させる。「月へ行く30の方法」というテーマを鋭く反映した「彼方の世界」に喝采を送る、「月の音」*7 の調べとともに。楽しかった人たちが月へ帰る、忘れていた人たちが弾く月の音がする、そんな歌詞がある。その人たちは、記憶や夢や写真の中、つまりは、映像の中にいる。ならば、その人たちに会うために「月へ行く」ことは、「映像へ行く」ことを意味している、「映像」は、「行く」ことのできる「場所」ではないけれど。

2月12日、パフォーマンス風景、2階ロビー、荒川ナッシュ医《ぬいぐるみの主観性(東京)》、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明
なお、残念ながら見ることができなかったが、「台湾短編映像芸術の今」をはじめ、今回も意欲的な上映プログラムがいくつも企画されていた。本来、映像祭は、「上映」、「展示」、各種のイヴェント、地域連携などを含む総合プログラムである。そのため、トータルな批評が望まれていることは自覚しているが、一個人が鑑賞できるプログラムには限りがあることも確かである。映像祭の会期中は、毎回、何を見るべきかという悩ましい判断を日々問われることになる。このテキストの執筆にあたっては、批評の根拠を示すことが重要であるとの基本的な立場から、私が実見した展示と参加することができたイヴェントを具体的な言及対象として取り上げつつ、記述の内容はそれらの展示やイヴェントに限定することなく、過去の映像祭での経験も含め、プログラムの全体を包括しうる論点を示すことを心がけている。

2月17日、パフォーマンス風景、2階展示室、関川航平《月蝕のレイアウト》、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:新井孝明
2月16日、2階の展示室で知人と遭遇、そこに、田坂が、兼平が、現れる。まるで井戸端会議、今回の映像祭について議論する、公園や広場という言葉が飛び交う、その議論自体が、公園や広場のような展示室で交わされている、そんな空間。ここで、「月へ行く」ことが「映像へ行く」ことでもある意味が判明する。公園や広場ならば、「行く」ことができる、そう思いついた瞬間、ある閃きが舞い降りる、ここは「ビデオひろば」なのではないか。日本のビデオ・アートの先駆的な活動である「ビデオひろば」の当事者の意図は別にして、言葉の喚起力として、そう閃いたのだ。
古典とさえ言える中谷芙二子やダラ・バーンバウム、透明な光が魅力的なパク・シュウン・チュエン、編集に冴えを見せるコリー・アーケンジェル、映像の提示方法も秀逸なジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ、写真と動画で展開され音も魅力的なテイヴィッド・ハモンズ、作品を持ち帰ることができるフェリックス・ゴンザレス=トレス、パフォーマティヴな要素を取り入れた有馬かおる、全ての作家を挙げることは叶わないが、この光景は、確かに、「映像公園」や「映像広場」と呼ぶにふさわしい。極論すれば、この空間では、映像が何かを表現するのではなく、映像が世界を成立させているのである。

展示風景、B1階展示室、ロジャー・マクドナルド/フェンバーガーハウス、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:中川周
2月17日、地下の展示室、ロジャー・マクドナルドによる「フェンバーガーハウス」のレクチャーを聞く。今回、「展覧会内展覧会」として降臨する「フェンバーガーハウス」は、「入れ子構造」のキュレーションを体現している。ヒエラルキーではなく、交換可能な入れ子構造が示唆されるところに、田坂と兼平によるキュレーションの魅力がある。ヒルマ・アフ・クリントを見て、「芸術におけるスピリチュアルなもの-抽象芸術 1890-1985」(ロサンゼルス・カウンティ美術館、1986年)を思い出す。アナ・メンディエタも、ここにいる、もっと注目されてよいはずだ。

展示風景、B1階展示室、青木綾子+伊藤存《9歳までの境地》2011/2014、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:中川周
同じく地下の展示室で遭遇する、青木陵子+伊藤存による作品も印象深い。ドローイングの表出のような映像は、石やスポンジなど様々なマテリアルに投影され、映像の可塑性を実感させる。そして、地下の一番奥の部屋で待ち構えている土屋信子の空間に、ようやく辿り着く。今回の映像祭の総合テーマ「月へ行く30の方法」は、土屋信子の展覧会「30 Ways To Go To The Moon 月へ行く30の方法」(2018年)のタイトルに由来する。今回の映像祭は、この大胆な命名が示すように、土屋の展覧会への参照を起点に、映像を広い解釈でとらえることに成功している。そのため、今回の映像祭においては、映像表現としての自己目的化から解き放たれた多様な映像と遭遇することができるのである。
土屋の空間を歩く感覚、それは、「散歩」だろう。日常と非日常が隣り合わせで、目的があるようなないような、そんな鑑賞体験。「月へ行く」は「映像へ行く」であり、「散歩へ行く」でもある、散歩の行き先は、もちろん「月」、BGMは「お散歩」*8 に違いない。もうひとつ、土屋の作品に漂うのは、「眠り」の感覚である。私が眠りに落ちている時、記憶が目を覚まし、私の身体から離脱し、散歩に出かける。私の記憶は、月への散歩で、誰かの記憶と遭遇し、記憶のイメージを交換する。だから、私が見る夢には、誰かの記憶が潜り込んでいる。土屋の作品が教えてくれる、月とは、記憶が散歩する場所。
そこでは、夢と現実の区別がつかない。記憶しかよりどころがなくなれば、現実の記憶と夢は、区別がつかなくなる。凡庸な現実は記憶から消え、強烈な夢は残り続ける。夢の一部が誰かの記憶であり、その誰かが現実に体験した出来事に由来するのならば、夢と現実の記憶の区別がつかないのは当然だろう。私の身体は、記憶という映像を格納する装置。夢を見ている時、私の記憶は、その装置から抜け出し、月へと散歩に出かけ、誰かと遭遇し、記憶のイメージを交換する。あるイメージが、無数の記憶と共有される時、集合無意識となる。月は、集合無意識的な記憶を格納する装置、そんなことに思いをはせる映像祭もあっていい、満月の夜、「The Whole of the Moon」*9 。

展示風景、B1階展示室、土屋信子《30 Ways to Go to the Moon》、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:中川周
3月22日、「コミッション・プロジェクト」が、私の中で連鎖する、金仁淑の展示によって。2月9日に金が撮影した田坂と兼平へのインタビューが、金の展示に加わっている。多岐にわたるプログラムを統括するキュレーターの二人が、ひとりの作家の作品を構成するモニターの中で、話している。権力構造を転倒させるような意図は全く感じられず、田坂も兼平も自然に話している。この「入れ子構造」の風通しのよさこそが、今回の映像祭の魅力を象徴している。CPのもう一人の作家、荒木悠の作品は、アイスランドの小さな村で撮影されている。アメリカのルート66にちなんだ地名がつけられているハンバーガーを順に食べることによって、シカゴからハリウッドまでの移動を表現する、移動しない《ROAD MOVIE》である。
荒木と仲間たちの苦行のような映像とあわせて、写真美術館のコレクションから、ルート66にちなんだ写真作品(ロバート・フランク、アンセル・アダムス、金坂健二など)が展示されている。見るものをルート66へと誘う写真が、荒木の映像にドライヴをかける、月の明かりに照らし出された、「Moonlight Drive」 *10 へ。CPの最後に、前回のファイナリスト4名(葉山嶺、大木裕之、金、荒木)のアーカイヴ展示がある。金と荒木は前回の特別賞により今回の展示の機会を得た(本来受賞は1名とされていた)。だが、賞はCPという枠組み内の判断に過ぎず、表現としての優劣とは関係がない。前回の葉山と大木の作品は、傾向は異なるが、どちらも、映像表現の可能性を開拓する、独創性に富む意欲作であり、高く評価されるべきである。

展示風景、石原友明《不安定な眼》2024年、「石原友明 展|サッケード残像」MEM、恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法」 写真:福永一夫 ©Tomoaki Ishihara, courtesy of MEM
3月30日、公式プログラムの閉幕から一ヶ月半、CPの閉幕からも一週間近く経過した映像祭が、私の中でループする、京都市立芸術大学における石原友明の二つの個展によって。同日のシンポジウムで、石原は「イメージは軽く、身体は重い」という名言を残した。今回の映像祭から導かれる、映像が何かを表現するのではなく、映像が世界を成立させるという論点は、映像一般に該当するこの名言を、「イメージは重く、身体は軽い」へと転倒させる。映像表現としての自己目的化から解き放たれた映像は、様々なフォームを纏って出現する。映像が組み込まれた物理的な設えは「イメージの重さ」をもたらすが、それらを見る時、視覚の専制は行使されず、全感覚的な受容が果たされ、逆説的に「身体の軽さ」が浮上する。
再び、「Space Age Love Song」が聴こえてくる、フィルハーモニーを従えて *11。「フィル」は「愛」、「ハーモニー」は「調和」、「映像祭」が「映像愛」へと変異する。映像が何かを表現するのではなく、映像が世界を成立させるのならば、「映像祭」は「世界祭」、「映像愛」は「世界愛」。「映像を、世界を、愛する」ことと、「映像が、世界が、愛する」こと。この曲が、今回の映像祭の極私的テーマソングである理由も明らかになる。「月へ行く」ための、「映像へ行く」ための、「ビデオひろば」へ行くための、「月を散歩する」ための、「映像を散歩する」ための、ラブソング。「恵比寿映像祭2024 月へ行く30の方法」は、華やかな祝祭的興行の背後で、「映像、世界」と「愛」の関係を、静かに、問いかけている。
註
*1「Space Age Love Song」フロック・オブ・シーガルズ
*2 東京都現代美術館学芸員。東京都写真美術館在籍時の2009年に「恵比寿映像祭」を立ち上げ、第1-5回、9回、11回、13回のディレクターを務める。
*3「Moonage Daydream」デヴィッド・ボウイ
*4 今回の企画メンバーについてはインフォメーション欄の開催概要を参照。
*5「I’m On Earth」フルカワミキ
*6「VÉNUS」ルースターズ
*7「月の音」テニスコーツ
*8「お散歩」ハルメンズ
*9「The Whole of the Moon」ウォーターボーイズ
*10「Moonlight Drive」ブロンディ
*11「Space Age Love Song」フロック・オブ・シーガルズ+プラハ・フィルハーモニー管弦楽団
INFORMATION
恵比寿映像祭2024 「月へ行く30の方法」
会期:2024年2月2日~2月18日 ※コミッション・プロジェクト(3F展示室)のみ3月24日まで
会場:東京都写真美術館、恵比寿ガーデンプレイス センター広場、地域連携各所ほか
主催:東京都/公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都写真美術館/日本経済新聞社
企画:兼平彦太郎(共同キュレーター)、田坂博子(企画統括)、邱于瑄、小林麻衣子、藤村里美







