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山本浩貴『ポスト人新世の芸術』

Written by 中野信子|2022.8.26

ポスト人新世という語を目にする時、一般的な読者であれば、奇異な印象を受けるのではないだろうか。人新世というタームそのものが人口に膾炙し始めてからそう時間の経っているものではないにもかかわらず、既に「ポスト」という接頭辞がつく。そのことに、軽い驚きを感じさせられるはずだ。この用語が既に陳腐化しているのはわが国ではアートクラスタの内部に限定されており、著者は果たして、こうした限られた人々のために、論考でなくわざわざ著書としてこれを書かなければならなかったのだろうかと、一瞬戸惑ってしまうのではないかという危惧を覚える。しかし、内容を読み進めていけばわかるとおり、これは読者へのサーヴィスとしてのいわば著者、編集者側のギミックなのだ。また同時に、人新世という用語が本質的に孕んでしまう二律背反に対して、著者の注目したアーティストたちがいかに解決を試みてきたのか、が本書のテーマでもある。「人新世」というのは、この語を用いた途端に、「自然」と対置されてしまう「人」という存在が構造化されてしまう術語である。著者は、アートによってこの前提を乗り越えようという試みに着目しているのである。この解決を試みるために、これをひとたびは受容して止揚していこうという姿勢を「ポスト」という接頭辞に込めているといってもよい。このタイトルは、著者のこうした、静かだけれども強い闘争心の反映でもあるのだろう。

本書で言及されている作家の数には限りがあるが、その分、解像度の高い分析がされている。読者はたしかな読みごたえを感じるのではないかと思う。著者は明示的に指摘しているわけではないが、今世紀初頭になされた人新世という新たな時代区分の提案が、歴史学や文明論をはじめとした人文科学としてではなく、自然科学における地質年代上の概念という形でなされたことへの評価を試みているようにも見える。
ガリレオ・ガリレイが自然科学の父と称されることがしばしばあるが、それを起点とするのであれば現在、自然科学の誕生から約500年経過していることになる。
我々が共通基盤として持っている規範はすでに宗教にはなく、科学と技術を信仰しているといった様相にある。明示的ではないものの神はあたかも科学の中にあるものという前提で日常生活の細部に至るまで解説がなされていき、伝統的な民俗的寓話、神話ですら科学と不可分ではなくなりつつある。そのような様相にある自然科学が、人類全体のパラダイムの変更を迫るような、新しい年代の区分を提唱したのである。哲学でなく、科学がこのような役割を果たしたこと自体が、既に新しい。そのうえで、著者はそれに内包される二律背反の構造を、丁寧にリファレンスを引きながら、作品を制作する側、鑑賞する側、批評する側と複数の視点を移動しながら、非可視的な構造のありようを立体的にあぶり出して静かに批判して見せるという試行を本書の中で繰り返していく。そのさまは、手練れのハンターが周到にわなを仕掛け、藪の中に潜んでいる獲物が自ら罠にかかりに来るのを誘導してみせるような知的な小気味よさがあり、読み手に満足感を与える。

ところで、人新世という用語が提唱された2000年紀の初頭と比較すると、特にパンデミックによってよりネットへのアクセスが増加したとみられる2020年頃の様相は幾分変化を見せているのも確かだ。新語に対する感覚のサイクルが、加速度的に速くなっていくという現象は、単位時間に人が暴露される情報量の増加によるものと考えてよいだろう(本来数式で表現すべきだし検証も必要だが作業仮説として記しておく)。例示としては、我が国の近年の言語空間においては、デザイン思考、アート思考などのいわゆる“セクシーな”用語が瞬間的に注目を集めて主として商業的な文脈で多用されたのち、クリシェ化して、消費されつくしていく。これらの語は、アカデミックにはそもそも受け入れられてもいなかったのではないかという批判を度外視すれば、その盛り上がりは2年―3年程度という短期間のうちに収束している。現時点でそれらの言葉を口にすれば、含み笑いをもって応対されるか、もしくは、古くささを感じさせる用語を敢えて使っているのかという深読みを誘うことになろう。こうした事象は本書の眼目ではないが、その語が発出された初期段階では重要な問題提起をしているのにもかかわらず、表層的に受け止められてしまい、大規模な本質的考察を俟(ま)たずに用語が陳腐化せざるを得ないことの背景に、本書の主題の近傍に位置する問題意識がある。
対立からの止揚よりも、私たち日本人が忘却を選んできたのは、二律背反的構造が駆り立ててしまうある種の緊張状態――近年では分断と呼ばれることが多い――に対して共同体の構造が高度に複雑化されすぎていてナイーブであるために惹起される防衛機制的反応の一つである。果たして、著者の企図するところは日本のコンテンポラリーアートにおける人新世をめぐる事象、なかんずく作品群の分析にあり、西洋的な二律背反では解決のつかない人間対自然という対立軸あるいは人間中心的パラダイムを、ポスト人新世という仮想的な構造を提示することによって超克しようという試みの体系化である。自然か、人間かのジレンマをめぐる考察は西洋の言語空間で久しく練られてきた議論であろう。しかし、こうした区分をした場合、我々は当事者の一方「人間」であることをまぬかれることは不可能であり、議論は袋小路になってしまう。

龍樹は『中論』でテトラレンマ型の論理構造を示している。一切はそのように〔真実〕である、一切はそのように〔真実〕ではない、一切はそのように〔真実〕でありまたそのように〔真実〕ではない、一切はそのように〔真実〕であるのではない、の四律である。A、非A、Aであり非Aでもある、Aでもなく非Aでもない、と書き下したほうがよいかもしれない。四律を図示してみれば、西洋型の二律に対してより包摂される解の幅が大きいことがご理解いただけるだろう。
人新世という二律背反がもたらした閉塞感は我々の現実に不自然な歪みとして影を落としているが、テトラレンマによる解決はロンドン芸術大学で文化研究者としてのトレーニングを積んで博士号を取得し、アジア人としてのルーツを持つ著者ならではの躬行であろう。
統計的にはすでに地球上に存在する哺乳類のうち9割は人間とその家畜であるという現在にあって、そもそも自然というものの概念すら都市型の生活を営む人間には抽象度の高いものになりつつある。こうした状況下で、自然と繋がり、自然を我々の手に取り戻すにはどういった方途があるのか(この表現も二項を前提としている以上、本来的には矛盾をはらむが)をめぐる議論は興味深い。さらに我々は権威と対置される個人であり、カッコつきの世界の「中央」と対置される日本人である。周縁に置かれた人間がどう世界を取り扱ってきたのか、また、どう扱っていくのか、著者の冷静な分析とアカデミックで抑えた文体、また著者自身が芸術を手に取り戻そうとする闘いの軌跡を、本書を通じて読者は追体験することができるだろう。

INFORMATION

『ポスト人新世の芸術』

著者:山本浩貴
発行:カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社
発売:美術出版社
判型:四六判 上製
ページ数:320ページ

WRITER PROFILE

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中野信子 Nobuko Nakano

脳科学者/医学博士/認知科学者。東日本国際大学教授。京都芸術大学客員教授。
1975年東京都生まれ。1998年 東京大学工学部応用化学科卒業。2008年 東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。フランス国立研究所にて博士研究員として勤務後、2010年より研究・執筆を中心に活動。2022年 森美術館理事に就任。現在、脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を精力的に行っている。科学の視点から人間社会で起こりうる現象及び人物を読み解く語り口に定評がある。

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