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EXHIBITION

メディウムとディメンション:Apparition
青山|目黒
2023.12.1 – 12.24

Written by 梅津元|2024.4.9

「メディウムとディメンション:Apparition」青山|目黒(2023年)展示風景 撮影:西山功一

 

未メディウムと過ディメンション:Transubstantiation

 

「その夜、テクノロジーは自分が人間だと錯覚した。

人間は自分がテクノロジーだと錯覚した。」

 

山内祥太《舞姫》(2021、部分) 撮影:西山功一

 

「メディウムとディメンション:Apparition」は、山内祥太による《舞姫》と《Apparition》によって構成される。冒頭の引用は、映像と詩からなる《舞姫》の詩の最初の2行である。

本展は、マルセル・デュシャンが《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》(1915-1923)の制作を放棄してから100年目となる2023年、中尾拓哉によって企てられた。青山|目黒の大きなガラスの外からの眺めには、デュシャンを意図的に素通りしてきた筆者にとってさえ、抗うことが困難な魅力が満ちていた。

 

山内祥太《舞姫》(2021) 撮影:西山功一

 

その魅力は、展覧会名と作品名に共通する「Apparition=出現」に由来する。中尾は、デュシャンの制作の本質を示すこの言葉が、現代美術における創造行為においても重要な観点になると述べる。デュシャンによる制作の放棄を引き継ぐ中尾の「Apparition」は、《大ガラス》に潜むキュレーションの側面を照射する。《大ガラス》が、デュシャンの作品を集めた展覧会のように見える。山内の《Apparition》は、中尾のキュレーションに潜む作品の側面を照射し、《大ガラス》を作品へと引き戻す。「Apparition」のガラスの外からの眺めが、《大ガラス》のように見える。

無意識のうちに共犯関係を結ぶ中尾と山内は、《大ガラス》に潜む作品とキュレーションの重層的な構造を炙り出し、100年の熟成を経た《大ガラス》のふたつの欲望——作品としての完成を求める欲望と、展覧会への生成変化を求める欲望——の葛藤が露呈する。この欲望の葛藤が、山内の作品の受容にドライブをかける。

 

「メディウムとディメンション:Apparition」青山|目黒(2023年)展示風景 撮影:西山功一

 

「メディウムとディメンション:Apparition」青山|目黒(2023年)展示風景 撮影:西山功一

 

「未メディウム」は、リピット水田堯が「映画をめぐる美術」(京都国立近代美術館、2013)の図録への寄稿において提示した「無メディウム」を参照した概念である(『引込線2015』所収の「Sound of the Real 3」参照)。平易に言えば、固有のメディウムへと至る以前の「メディウムの萌芽状態」を示す。水槽、蒸留、加湿、煙の映像、脱皮を繰り返す映像、パフォーマンスなど、循環的、複合的な構造の山内の作品には、非実体的な「未メディウム」が充満している。

充満する「未メディウム」は、観客を作品に放り込む。蒸留や加湿によって放出される「匂い」を帯びた水の粒子が観客の体内に取り込まれ、パフォーマンスでは「匂い」が観客に吹きかけられる。視覚だけでは把握できず、客観的な鑑賞が成立せず、観客は作品の循環的な構造に取り込まれる。テクノロジー(機械/システム)と身体(愛/エロティシズム)を接合する山内の企みは、防御不能な感覚に訴え、テクノロジーを象徴する「映像(信号、解像度)」と生命を象徴する「水(循環、分子構造)」の相互浸透を促す。

 

山内祥太《Apparition》(2023、部分) 撮影:西山功一

 

山内祥太《Apparition》(2023、部分) 撮影:西山功一

 

《舞姫》の映像では、ゴリラのような生物が脱皮を繰り返す。《Apparition》の水槽や蒸留装置をつなぐチューブは、その映像の壁の穴を通り、水を循環させる。ならば、ゴリラは氷の、脱皮後の皮は氷の表面から溶け出した水の、メタファーだろうか。ゴリラ=氷が全て溶け出さないのは、チューブから映像に水が供給され、氷が生成され続けるからだろう。《Apparition》の煙のCGは、気化した水の粒子を想起させ、蒸留や加湿との密接な関係を示す。

「過ディメンション」は、ここで初めて提示する概念である。中尾は、デュシャンの《大ガラス》において、「現実的な三次元を超えた高次元世界にある対象が、三次元世界の目前に「出現」する」と述べている。この「高次元世界」への参照から「過ディメンション」が導かれる。デュシャンの考える四次元超空間を三次元において認識するためには時間が必要であるが、蒸留、加湿、映像、パフォーマンスなど時間を伴う山内の作品では、推移する時間が物質や身体を現象へと変容させる。

時間を伴う作品は静的な把握を許容せず、観客は動的な知覚を強いられる。だが、青山|目黒の特徴である大きなガラスを介して、ギャラリー空間を外から眺めると、「未メディウム」と「過ディメンション」が一挙に圧縮される稀有な視覚体験がもたらされる。ギャラリーの外から中を見る時、内部の音は聞こえず、匂いも感じられない。ガラスの向こう側の空間は圧縮され、作品と観客が《大ガラス》のように渾然一体となり、視覚への一元化が果たされる。

 

山内祥太《Apparition》(2023)パフォーマンス パフォーマー:三好彼流 撮影:西山功一

 

「Transubstantiation(実体変化)」は、神学において「パンとブドウ酒がキリストの肉と血に変わる」ことを意味する。デュシャンは「創造行為(Creative Act)」と題する講演(1957)の中で、この言葉を用いている。中尾のキュレーションと山内の作品を読み解く鍵は「実体変化」に潜んでいる。以下、デュシャンの引用の後、筆者が経験した仮想的な実体変化の記述を試みる。

「不活性物質が芸術作品に変化することによって、本当の実体変化が起きるのであるが、そこで鑑賞者の重要な役割とは美の台秤で作品の重さを量ることなのである。」

加湿器から放たれる水の粒子が私の体に取り込まれ、私の体が水の粒子と同化する。水の粒子と化した私は、やがて、大きな水槽を満たす液体に吸収され、循環するチューブによってギャラリー空間を駆け巡る。時折、《舞姫》の映像が投影される壁の裏で、氷(=ゴリラ)になるべく供給される。だからゴリラは私でもある。脱皮後に残る皮は、氷の表面から溶け出した水であり、映像の中からギャラリーの床へと流れ出す。

その感覚は、映像の壁に出入りするチューブから想起されるエヴァ・ヘスの《Hang Up》(1966)が、作品世界と現実世界を接続することによってもたらされる。また、脱皮から蛇が連想されると、床を這うチューブが蛇に見え(頭と尻尾は映像の壁の背後)、その感覚は、胎児と成人が入れ替わっている《Apparition》のドローイングや、《舞姫》の詩における身体がねじ込まれるゴムスーツとも、共鳴する。

 

山内祥太《Apparition》(2023、部分) 撮影:西山功一

 

大きなガラスを介する外からの眺めが、私を仮想的な実体変化へと導き、私の肉は皮=映像に、私の血は水に、変化する。《舞姫》の映像の脱皮後の皮は、水と化して現実空間に流れ出し、その水=私は、やがて蒸発し、ギャラリー空間を漂う。蒸留や加湿と交わる水の粒子=私は、《Apparition》の映像の解像度と水の分子構造の接合により、モニターのピクセルを介して映像へと浸透し、CGによる煙の生成に関与する。映像においても、水においても、空気においても、粒子の疎密が「像」を出現させる。

 

山内祥太《Apparition》(2023)パフォーマンス パフォーマー:三好彼流 撮影:西山功一

 

大きなガラスは物質と観客だけではなく、蒸留や加湿によって「匂い」が拡散するギャラリーの空気さえも圧縮する。その空気は、山内の作品において重要な、見えないけれど感覚される何か、である。ガラスによる圧縮が、不可視の空気や「匂い」さえも視覚化する、倒錯的な事態。中尾のキュレーションと山内の作品がもたらす倒錯的な事態は、あの《大ガラス》の倒錯的なふたつの欲望に、導かれている。その倒錯的な事態において、中尾と山内が目論んだ、不可視の芸術の「出現=Apparition」が、成立している。

 

不可視の芸術の「出現=Apparition」によって、《舞姫》の詩の最初の2行が、読み替えられている。ここで、山内の詩における「錯覚」が現実となる時、実体変化が起きることだろう。これをもって、結びとする。

「その夜、〈映像〉は自分が〈水〉だと錯覚した。

〈水〉は自分が〈映像〉だと錯覚した。」

 

 

備考

本展は中尾のキュレーションによる「メディウムとディメンション:Liminal」(2022)と関連している(青木淳によるレビュー参照)。デュシャンの引用は『マルセル・デュシャン全著作集』(北山研二訳、未知谷、1995年)による。

 

INFORMATION

メディウムとディメンション:Apparition

会期:2023年12月1日-12月24日
会場:青山|目黒
キュレーション:中尾拓哉
参加アーティスト:山内祥太

主催:メディウムとディメンション実行委員会
協力:KYOTO EXPERIMENT
支援:令和5年度文化庁メディア芸術クリエイター育成支援事業

WRITER PROFILE

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梅津元 Gen Umezu

批評家/キュレーター。専門は芸術学。モダニズム以降の芸術の可能性を探るため、美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション/企画:「DE/construct: Updating Modernism-阿木譲をめぐる3つのプログラム」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「Trans/speed, Dub/paint-樋口朋之」art trace gallery(2015)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)。埼玉県立近代美術館学芸員(1991-2021)としての主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
撮影:久家靖秀

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