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PERFORMANCE

FESTIVAL de FRUE 2022
つま恋リゾート 彩の郷
2022.11.5-6

Written by 三木邦洋|2023.1.2

今年の「FESTIVAL de FRUE」の余韻はひときわ大きく、開催からひと月が経ってもあと味が残っている。二日間のイベントが終わり帰路につくとき、このイベントがずっと私たちに見せようとしていた、または彼ら自身が見たかった光景が5年目にしてついにかたちになったのだと思った。

2017年に開催された初回の「FESTIVAL de FRUE」で実現したThe Master Musicians of Joujouka(以下、ジャジューカ)のライブ。ジャジューカ村現地のフェスティヴァルを再現したテントでのPAシステムを使わない生音ライブは、その場にいたほとんどの人々のライフタイムベストを更新してしまうほど強烈だった。

それまでもオーガナイザーとしてユニークなイベントを都内のクラブやライブハウスで開催してきたFRUEによる、満を辞しての野外フェスティバルとしてスタートした「FESTIVAL de FRUE」。その初回にぶち上げたジャジューカの出演は、当時は初回にして最大の切り札を使ってしまったのではないかという見方もなくはなかったが、今となってはFRUEの野心をかたちにしていくために広げる大風呂敷としてこれ以外ない最善の選択だったと思える。

「FESTIVAL de FRUE」は、あらゆる面で通常の「フェス」とは異なるスタイルをとっている。2つあるステージのどちらも、アーティスト1枠の演奏時間が最低でも1時間、長くて2時間以上ある。多くの日本のフェスの構成(ステージを複数用意して出演時間を短めにし、なるべく多くの出演者をブッキングする)とは真逆のタイムテーブルの組み方だ。また、ヘッドライナーが果たす役割も、集客力よりも「FESTIVAL de FRUE」の現在進行形なモードを象徴する存在であることが第一条件になっている印象がある。

常套的なマーケティング手法をことごとくとらない「FESTIVAL de FRUE」は、コンセプトにおいてもシンプルに「魂のふるえる音楽体験」を掲げるのみだ。フェスという文化がブームを経て洗練・多様化していくなかで、あえてシンプルな音楽第一主義を貫いた「FESTIVAL de FRUE」は、結果としてイベント自体に信頼を寄せるファンを獲得していった。主催者とファン双方の背景には、フェスというものが洗練することと引き換えに、音楽体験の真髄とも言える理解を越えた名演やそれによって作り出される光景が排されつつあることへの物足りなさや不信があるのではないかとも思う。

とにかく、そうしたスタンスを貫いてきた「FESTIVAL de FRUE」がひとつの結実を見た今年は、二日間全体がひとつのライブのようで、それゆえに演者と観客の集中力が途切れることなく、じわじわと音楽が時間を支配する密度が高くなっていく感覚があった。

フォークやアンビエント、ロック、ヒップホップ、コンテンポラリーな沖縄音楽やインプロビゼーション、レフトフィールドなエレクトロニックミュージックなど、「FESTIVAL de FRUE」でしか見ることのない横断的なラインナップ。すべてのライブ、DJが本当にすばらしかったのだが、やはりヘッドライナーであり実際にピークタイムを作ったピノ・パラディーノ&ブレイク・ミルズfeaturing サム・ゲンデル & エイブ・ラウンズの演奏は圧巻だった。

ピノ・パラディーノ

主催者の山口彰悟さんが後日イベントを振り返って次のようなポストをしていたのだが、すべてを物語っている言葉だと思った。他人事のような飄々とした物言いには笑ってしまったが、それだけ彼らのライブが「FESTIVAL de FRUE」の性格とシンクロしていたということなのだろう。

ピノ&ブレイクが演奏しているとき、フロアから振り向いたときフロアどころが(原文ママ)椅子席にも人がたくさんいて、この、まぁ地味な音楽に、これほど多くの人が耳を澄ませているのか、まじか。やべーって、ちょっと感動した。

ひたすら楽器演奏の妙を突き詰めたようなアンサンブルは、ジャズでもなくジャムやファンクでもない。同時にそのすべてを含んでいるようでもある。研ぎ澄まされた技術とセンスを総動員し脱構築した「地味な音楽」は、それを目撃した観客の頭と心を解放した。

ピノ・パラディーノ&ブレイク・ミルズがリリースした作品には2021年のアルバム『Notes with Attachments』と、同作をSound City Studiosで再演したライブ録音盤「Live at Sound City」(サム・ゲンデルを迎えたトリオでの演奏)がある。両作は編成こそ違えど、どちらも箱庭的でリラックスした印象のサウンドだ。

エイブ・ラウンズ

対して、ドラムにエイブ・ラウンズを迎えた「FESTIVAL de FRUE」での演奏は、一音目から強烈なうねりのなかで、繊細に音が重なっていくスリリングなものだった。彼らの演奏の特異な点は、各パートの役割や機能性といったものがかなり曖昧で、普通のバンドアンサンブルとは根本的な部分で成り立ち方が違う。とてもオープンでアクティブなコミュニケーションに満ちていることはわかるし、美しく心地良い印象もあるのだが、しかし彼らの間で何が行われているのかはほとんど理解できない。それはジャズ経由のインプロビゼーションにある、ある種スポーティーな相互作用とも似て非なるものだ。

彼らが一体なにをしているのか。そのヒントとして、「Live at Sound City」のリリース時のインタビューでミルズは、このプロジェクトの作曲や編曲について次のように語っている。

ブレイク・ミルズ

「レイヤーの中に構成があるという感覚です。最終的に残るのは、かなり緻密に作られたオーケストレーションのようなもの。メロディ1つだけではなく、場合によって曲の全体性を表現する必要があるのか、それとも核となる要素だけに戻るのか。揃えたメンバーたちによってどんな新しい楽器編成を見出せばクールになるのか、ということを考えています」

また、パラディーノとミルズとにとって、彼らの楽曲をライブで成立させる上で欠かせない存在であるというサム・ゲンデルは、このアンサンブルを「生き物のようだ」と表現している。

「(このアンサンブルでの作曲は)終わりがなく、まだ続いているような感覚があります。みんなの間でたくさんの受け渡しがあるから、どんどん進化していくんだ。普通はみんな同時に2つのことをやっているんだけど、その2つのことが全然違うところから元の音楽に参照されることがある。例えば、僕はドラムのパートを聴いて、それをサックスで演奏したくなる。ピノはメロディーを考えているかもしれない。普通では考えられないようなフレーバーを組み合わせるのが楽しいんだ」

サム・ゲンデル

複雑で膨大な情報のやりとりとそこで生まれるインスピレーションのサイクルを「生き物」と例えたゲンデルの言葉からは、複雑系科学や人工生命の研究者である池上高志の「生命らしさ」についての話が浮かぶ。池上いわく「生命が宿っている」ことの定義は、「自然なコミュニケーションをとることができて、かつその中身や仕組みを知りたいと思わせない」こと。つまり、仕組みの存在を感じさせないままに自律的に動くことを、生命があると判断するボーダーラインにできるのではないかということだ。

パラディーノ&ミルズの音楽にある新しさの根底には、メロディやリズムというものが複雑な編曲(オーケストレーション)を行うための骨格でしかなく、それに沿って自律的で交換的な演奏を生み出すOSのような存在がある。そこでは楽器演奏がただただ音楽として輝くことと、聞き手にとってそれがなぜ美しかったり心地よかったりするのかのメカニズムが把握できないことが当たり前に同居する。

そういう地味で分かりくいはずの音楽に、多くの人々が感動し、ある種救われたような感覚が共有された「FESTIVAL de FRUE 2022」初日ラストのあの光景は、私たちの内面に新しい価値観を確実に植え付けた。そしてそれは偶発的に起こったことではなく、FRUEがこだわり続けてきたことが結実した瞬間だったのだと納得できることがなにより素晴らしいと思う。

INFORMATION

FESTIVAL de FRUE 2022

つま恋リゾート 彩の郷
2022.11.5-6

WRITER PROFILE

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三木邦洋 Kunihiro Miki

ライター。1987年生まれ。Timeout Tokyo、Forbes Japanなどの媒体に寄稿。

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