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EXHIBITION

人工知能美学芸術展
演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか
パルテノン多摩
2022.12.25

Written by 山岡信貴|2023.2.27

AI愛護団体+Midjourney 《Is it the composer’s fault that the performer has only 10 fingers?, CHARES IVES Symphony for full orchestra and choir and three pianos》 2022

 

2022年12月25日パルテノン多摩大ホール。それはクラシックのコンサートに見えたかもしれない。実際そのように体験して、無事、帰宅された方もいることだろう。けれども、参加した多くの人々がこのコンサートのタイトルに一度は目を凝らしてみる瞬間があったはずだ。

「演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」

読み流してみればシンプルな疑問にも思えるが、わたしたちが名作と崇めるあらゆる芸術が、ある前提のもとに強固な制限がかけられたごく小さな世界で右往左往しているにすぎない営みであることが端的に示されている。

では指が20本あれば作品はもっと良くなるのか?あるいは音楽そのものが変わってしまうのか?批評の作法はこれまでの様式で問題ないのか?さまざまな疑問が立て続けに生じ始める。そしてこの疑問が開く扉(「落とし穴」かもしれない)こそが、アートに関わる全ての者がやがて直面し、それを無視すれば気休めの娯楽を愚直に生産しつづけるしかないという根本的な問いかけにつながってゆく。

 

人工知能美学芸術展 2022 展示風景 [中央手前]AI愛護団体+Midjourney 《Is it the composer’s fault that the performer has only 10 fingers?, CHARES IVES Symphony for full orchestra and choir and three pianos》 2022 [右]人工知能美学芸術研究会《逆カクテルパーティー効果》 2022 [左奥]人工知能美学芸術研究会《人工知能美学芸術年表》2017-2022 撮影:皆藤将 提供:人工知能美学芸術研究会

人工知能美学芸術展 2022 展示風景 草刈センジン《ロマネスコ フィボナッチ数列》2022 撮影:皆藤将 提供:人工知能美学芸術研究会

 

このイベントの主催者は人工知能美学芸術研究会(以下、AI美芸研)。この会は昨今取り沙汰されることが多くなった人工知能(以下、AI)を使った芸術を研究するために……ということでは全くなく、「自意識を持ったAI」が自らの意思で作った美学や芸術を研究する会。そう、今日現在、そんなAIは地球上に存在していないし、当分の間は存在しそうにない。だがいずれはそのようなものが完成するであろう予感はSF的妄想も含め、世の中に満ちている。だからこのコンサートのタイトルは呪いのように演奏の最中も、幕間のホワイエでも、鑑賞者につきまとい、今まで当たり前のように享受していた芸術が脆弱な約束事の上にかろうじて浮遊しているに過ぎないのだということを思い至らせる。このことからも推測できるように、このコンサートは単なる演奏会ではなく、ホワイエではフラクタルな構造の植物とも機械とも識別しがたいオブジェや昨年評判となったAIを活用した絵画なども鑑賞できるという美術展の側面も垣間見え、さらに言えば、このイベント自体が一つの作品であると捉えて初めて、AI美芸研の意図に触れることができるという仕様になっている。

 

人工知能美学芸術展 2022 演奏風景 コンロン・ナンカロウ《自動演奏ピアノのための習作》 撮影:岩切等 提供:人工知能美学芸術研究会

 

先述のタイトルの言葉は演奏会パートのメインディシュであるアメリカの作曲家チャールズ・アイヴズによるもの。今回演奏された彼の『交響曲第4番』については、合唱隊付きのフルオーケストラは想定内にしても、驚愕なのは指揮者が正副合わせて3名いるどころかピアノも3台。さらに電子楽器に加え客席2ヶ所にも別動隊が配置、とただならぬ興味を引くものなので、この交響曲に注目してしまうのは当然なのだが、そこに至るまでのプログラムで、周到にこのイベントが通常のコンサートでないことが示される。それはホワイエに展示された様々な美術作品のことを述べているのではなく、それ以上にコンサートのオープニングを飾るのがコンロン・ナンカロウの『自動演奏ピアノのための習作』だったりすることだ。このイベントの「作品性」を意識させられる見事な構成である。実際、ステージ上に人の姿は皆無で、自動演奏ピアノが粛々と音楽を吐きだし続ける。それを観客はただ見つめる。この曲はAIによるものではないのだが、徐々に人間には演奏不可能であることが明らかな曲を演奏してゆき、この非人間の所業をただひたすら受け止め続けるしかない観客の姿は、近い将来、自分たちの重大な決断をAIの御信託に任せ、ありがたく受け止めている人類の未来像を予見させ、人間性を他者に明け渡すマゾヒスティックな快楽へと誘うものであった。

 

人工知能美学芸術展 2022 演奏風景 チャールズ・アイヴズ《交響曲第4番》 (左)正指揮者:夏田昌和、(右)第一副指揮者:浦部雪 撮影:岩切等 提供:人工知能美学芸術研究会

 

自動演奏ピアノの演奏が終わり、戸惑い気味な拍手が起こる。人間様が意識を持たぬ機械に拍手などできるものか(少なくとも今は)。だが将来、自意識を持ったAIによる芸術の出現によって、拍手どころか、ひれ伏し崇拝する姿を人間たちは躊躇なくさらすのかもしれない。その根底には「美」がどうのこうの以前に、絶対的な知的計算能力に対する畏怖とか賛美を含む、芸術体験というよりも宗教体験に近いものだろう。その時、我々がこれまで芸術と呼んできたものが、本能の一部を場当たり的に利用してきた成り行きの積み重ねに過ぎないことに気付かされるはずだ。

 

人工知能美学芸術展 2022 演奏風景 ゲオルク・フリードリヒ・ハース《スティーヴ・ライヒ讃》 レギュラーピアノ、四分音ピアノ:秋山友貴 撮影:東間嶺 提供:人工知能美学芸術研究会

 

そもそも芸術に美を感じるというのはこれだけ人工物が溢れてしまうと、感性以前に「人間性をことさらに賛美したい」というバイアスが中心になっている可能性がある。それがさらに明らかになるのはようやく人間の演奏者が登場し、見慣れたコンサートの風景らしくなる次のプログラム。ノーマルな調律と四分音に調律されたピアノによる2重奏による一連のパフォーマンスである。絶対音感を持つ者にとっては体調を崩す可能性があると公式サイトには煽り文句ともとれるような愉快な記述もあったが(実際に医師も待機していた)、自動演奏ピアノの洗礼を受けた影響なのか、とても心地よいものであった。だが、これはまだ人間の範疇の出来事だ。では、AIが作る芸術は人間に理解可能なのだろうか?AI美芸研作曲の『2台のピアノのための四分音ハノン』の機械的な響きを聴きながら、この曲がいわゆる音楽的快楽を冷徹に突き放せば突き放すほど、まだ理解の範疇にあることに安心感を覚えていられる自分を発見する。

このことはピアノ2重奏に続く演目であるシンポジウムで語られた次のエピソードにも繋がる。

「現時点でも既にAIを監視するのはAIにしかできなくなりつつある」

あまりにマッシブになった処理速度はもう人間が手出しする範疇を超えてしまった。だから将来、作者がAIで鑑賞者もAIになった時、それは人間が鑑賞できる領域を超えている可能性が高い。かろうじてAIの親切心(?)のもとに人間にわかりやすく簡略化されたものを恐縮しながら見せてもらうしかない未来。

 

そのような夢想を抱えつつ聴くアイヴズの『交響曲4番』。計算処理能力においてAIに遥かに劣る人間は、だからこそ素晴らしい芸術を作れるのは人間のみで、それこそが人間性の証だと確信している。だがこの交響曲はなんだろう。これが人の手によって書かれたものであるからその意図を読み取ろうとし、それが芸術的快楽にもつながる。たとえばこれがAIの手によるものだとしたら、全く同じ曲だとしても「やはりAIには音楽の美を理解するなんて不可能だ」と人間たちは安堵と共に声を荒げることだろう。

 

人工知能美学芸術展 2022 演奏風景 チャールズ・アイヴズ《交響曲第4番》 撮影:岩切等 提供:人工知能美学芸術研究会

 

しかし、ここに至って、メインディッシュであるアイヴズの『交響曲4番』はもう余興にすぎないとも思った。驚愕の第2楽章を案外素直に聴いている自分がいたのである。不協和音というにはあまりにも過剰な情報の洪水に身を任せると、それは音楽をディープラーニングしているAIの頭の中をのぞいてるようにも思えてくる。そして、未来において自意識を持ったAIは愚鈍な人間たちのためにあらゆる芸術を提供してくれることだろう。人間という有機体やその営みをデータとして知り尽くしたAIたちは人間に最も適した芸術を個々人にサプリメントのように提供してくれることだろう。その時人間は自分の感性を信じるのではなく、AIが提供する処方箋にしたがい「その曲が良いと思うことが良いことなのだ」という状況さえ生まれ、たいした時間もかからずに人間の感性などは簡単に書き換わってしまうことだろう。

アイヴズの『交響曲4番』はあの喧騒が嘘のように徐々に消え入るように、しかし機械的なフェードアウトではなく、ろうそくの炎が消える前に揺らぐような、生物が自然死する様をみせられているかのような奇妙な終わり方をする。実業家として成功したからこそ数々の過激な音楽的実験を繰り広げることができたのかもしれないアイヴズのあまりにも先鋭的な作品の最後は死の描写に見えた。それも物語的な死ではなく、有機体がぐずぐずと停止する現象としての死。そして答えの出ない疑問が湧き起こる。

「AIにとっての死とは?」

このイベントを演奏会として体験するにはあまりにも勿体無い。これほどまでに芸術や人間性について思考を巡らせることのできる美術展はまれであるとさえ思う。

 

全てを体験し終えた今、アイヴズの『交響曲題4番』よりも自動演奏ピアノが無人のステージで演奏する風景を次のようなイメージと共に思い返す時間が多いことに気づく。自意識を持ったAIの創る音楽は人類に理解不可能で、ステージ上はもちろん、観客席にも人類の姿はなくAIたちで満席の、生命を持つ者が皆無な大ホール。自分はその音楽が聴きたいと心から思うのだが、そこに人の姿がないのは、人間が耳にすると精神に異常をきたすものだからかもしれないし、そもそも人間という存在がAIの判断で役に立たないものとして殲滅済みなのかもしれない。それは悲劇というよりも人類の自意識の営みの果ての風景で、不謹慎ながら人類が作った最も総合芸術的な風景のひとつであるとも言えるだろう。

INFORMATION

人工知能美学芸術展:演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか

日時:2022年12月25日
会場:パルテノン多摩
【美術展】 大ホールホワイエ
【コンサート】大ホール
主催:人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)
後援:チャールズ・アイヴズ協会
助成:文化庁「ARTS for the future! 2」補助対象事業

WRITER PROFILE

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山岡信貴 Yamaoka Nobutaka

1993年に初長編映画「PICKLED PUNK」を監督。ベルリン映画祭ほか多数の映画祭に招待上映され、以後も実験的なスタイルで作品を発表し続けつつ、視覚の心理状態への影響やデバイス開発等、サイエンスの分野にも取り組んでいる。2013年にはロサンゼルスのIndependent film makers showcaseにて全長編作品のレトロスペクティブが開催された。2010年からドキュメンタリー映画の分野にも進出し「死なない子供、荒川修作」などを発表。「縄文にハマる人々」と新作「センチメンタル」ではルミエール・ジャパン・アワード優秀作品賞を受賞。最新作は『アートなんかいらない!』2部作。

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