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PERFORMANCE

ジュゼッペ・ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』
新国立劇場
2023.11.15 – 26

Written by 小田原のどか|2024.1.29

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

 

マグマと経血:「シモン・ボッカネグラ」におけるアニッシュ・カプーアの舞台美術

 

新国立劇場初登場となるジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901 年)のオペラ「シモン・ボッカネグラ」(1857年初演、1881年改訂)が閉幕した。フィンランド国立歌劇場とマドリード王立歌劇場との共同制作による本公演は、日本での初演後、ヘルシンキとマドリードで上演が予定されている。

プロローグと全3幕からなる本作は、本編の25年前に設定されたプロローグを踏まえ、主人公シモン・ボッカネグラの半生を追う。時代は14世紀のジェノヴァ共和国、シモン・ボッカネグラとは実在の初代ジェノヴァ総督である。生き別れとなった娘アメリア(出生時の名前はマリア)との感動の再会と主人公の悲劇的な死が主たる筋書きだが、話の背景には平民派と貴族派による階級の争いがある。

 

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

 

1005年から1797年まで存在したジェノヴァ共和国において、ボッカネグラが初代総督となったのは、4つの有力貴族が教皇派と皇帝派に二分して戦い、ここに商人や平民による平民派との対立が加わった時期であった。歴史上のボッカネグラは1339年に初代ジェノヴァ総督に就任し、1344年に貴族派の陰謀により一度は失脚するが、1356年に総督に復帰、宴会の席でワインに毒を盛られたことにより1363年に落命している。

こうしたシモン・ボッカネグラの生涯に、ヴェルディは興味深い脚色を行った。政治的な野心はなく、もとは私掠船船長であったボッカネグラが初代ジェノヴァ総督となったのは、 政敵の貴族派フィエスコの娘マリアとの恋愛の成就を望んだからだった、というものだ。平民派パオロの画策と後押しもありボッカネグラは総督になるが、その愛は悲劇的結末を迎え、マリアは落命し、実子とは生き別れてしまう。25年後に娘アメリアと再会し、フィエスコと和解を迎えるも、アメリアに思い寄せる腹心パオロにより毒殺されるに至る。本作は筋立てが複雑であることで知られるが、この度の上演では、階級による対立と裏切りの渦のなかで実現した再会や和解の清らかさが際立った。

 

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

 

そうした印象は、舞台美術をアニッシュ・カプーアが手がけたことも大きな要因だろう。本作の演出を担ったピエール・オーディが述べたように、ヴェルディのオペラの舞台美術に現代美術家が起用されることは稀である。

オーディが演出したシモン・ボッカネグラの物語のためカプーアが示したのは、おもに3つの舞台装置だ。プロローグの舞台は、複数の三角のオブジェで構成された。当初は暗がりの中で暗く無彩色に見えたそれらは、船乗りであったボッカネグラが総督となった瞬間に光に照らされ、海洋国家・ジェノヴァ共和国の国旗の配色であると同時に、船の帆をかたどっていたことがわかる仕掛けとなっている。ボッカネグラの人生が大きく動き出す要因としての、愛する者との別離と初代総督就任という栄光。その対比が鮮やかに映える舞台美術であった。

 

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

 

それから25年後、本編3幕は、巨大な火山が下を向いて吊られているように見える舞台の上で進んでいく。じつに印象的かつ象徴的なこの逆さの火山は、ドイツのロマン主義の作家ヘルダーリンによる未完の戯曲『エンペドクレス』から着想を得たものだという。ニーチェにも深く影響を与えたこの戯曲は、シチリア島東部のエトナ山近くで暮らし、火口で投身自殺した古代ギリシアの哲学者・エンペドクレスの思想と生涯を描いている。

エトナ山とはヨーロッパ最大の活火山であり、イタリアにおいてアルプス山脈を除けばもっとも高い山でもある。ゼウスに敗れたエトナ山に封印された怪物テューポーンがもがくたび噴火が起こるという逸話や、アテーナーに敗れて封印された巨人エンケラドスが山の下から炎を吐き続けているという逸話など、ギリシア神話やローマ神話において伝説の源泉ともなってきた。

 

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

 

今回の演出では、ボッカネグラが絶命する際、エトナ山が噴火し、主人公とともに溶岩を思わせる物体に舞台が包まれる。こうした舞台美術と演出は、「悲劇形式との格闘」とも評される『エンペドクレス』の主題、すなわち人間的な観点からの悲劇を超克せんとする、神話的な想像力を本作に付与したと言える。さらに驚くべきは、噴火した逆さのエトナ山と交代するかたちで、舞台中空に漆黒の太陽が出現することだ。これにカプーアの作品《世界の起源》を想起するとともに、 日本国旗の反転を見たのは筆者だけではないはずだ。

この黒点に、もうひとつの補助線を引きたい。光の99.8パーセントを吸収し、ブラックホールよりも黒いとされるvantablackという新素材がある。カプーアがこの素材を絵画や彫刻に使用する際の権利を独占したのは、2014年のことである。2019年、MITの研究者によってvantablackよりも 高いパーセンテージを有する99.995パーセントの光の吸収性を備えた黒が開発されたが、カプーアによるvantablackの独占は、いまだに物議をかもしている。

この度の演出では舞台美術を通じ、『エンペドクレス』をふまえながら、階級社会の悲劇を火山の噴火という人間のスケールを超える現象と接続することにより、脱ー人間中心主義が目されていたように思われる。期せずして、最終幕の黒点にvantablackをめぐる論争が想起されてしまったことは作品とって想定外であったかもしれないが、それも含め、興味深い舞台装置の提案であったと言えるだろう。

 

アニッシュ・カプーアは、1954年にバグダードのユダヤ人共同体出身の母と、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域出身の父から、ボンベイ(現ムンバイ)で生を受けた。デヘラードゥーンで初等教育を、イスラエルはキブツで電気工学を学び、英国に移りチェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで美術を修めた。1990年にヴェネチア・ビエンナーレのイギリス館代表として出展、1991年にはターナー賞を受賞、2003年には大英帝国勲章 CBEを受章し、2009年には英国王立芸術アカデミーで個展を開催した最初の存命作家となった。

華々しい功績に彩られた作家だが、その実、複雑な出自についてはそれほど多くが語られる ことはなかった。本作公式パンフレット所収の文化研究者・ 山本浩貴による寄稿がその点に踏み込んでいることの重要性も、ここに付記しておきたい。

日本国内でもカプーアの作品は複数見ることができる。金沢21世紀美術館では前述の《世界の起源》(2004年)が常設され、1994年に東京・立川市に完成したファーレ立川には 《山》が常設展示されている。企画展の開催も少なくはなく、「シモン・ボッカネグラ」におけるカプーアの舞台美術を考えるうえで大きな手掛かりとなるのが、表参道GYRE 内の ジャイル・ギャラリーで 2024年1月28日まで開催中の「アニッシュ・カプーア_奪われた自由への眼差し_監視社会の未来」展(キュレーション:飯田高誉)だ。

同展では、「シモン・ボッカネグラ」の舞台美術のためカプーアが用意していたドローイングと同シリーズの平面作品とともに、本編の舞台上の美術装置として用いられた有機的なオブジェクトとつながりの深い立体作品の双方を見ることができる。舞台上でマグマとしても用いられた立体物は、美術館では決して実現できないほど至近距離で鑑賞が可能だ。こうしてつぶさに作品を見ると、それらは経血のかたまりのようにも見えてくる。

 

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

 

主人公の名前が与えられたヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」において、死の淵にいるボッカネグラが最後に口にしたのは「マリア」という名であった。それは25年のあいだ離ればなれになっていた娘の洗礼名であり、ともに生きることが叶わなかった、愛する者の名でもある。「自然」と「人為」の合一と解体の二重性を主題とした『エンペドクレス』は、ヘルダーリンによる3度の改稿を経てもなお、エトナ山噴火口への投身は描かれることはなく、未完のままに終わった。『エンペドクレス』には描かれなかった終局を「シモン・ボッカネグラ」に与えたカプーアの舞台美術に、筆者は生命のサイクルとしての経血を重ねる。本作においてエトナ山はなぜ逆さであったのか。それは子宮をかたどっていたとは言えないか。名前ではじまり名前で終わるこの歌劇は、カプーアの舞台美術により、かような循環の物語としても味わうことができた。

 

参考文献:

 畠山 寛「運命の「偶有性」から悲劇の「理念」へ : 書かれざる悲劇 『エンペドクレスの死』」『駒澤大学外国語論集』 2017 年

ヘルダーリン『悲劇エムペードクレス』(谷 友幸訳)、岩波 文庫、1997 年

 

INFORMATION

ジュゼッペ・ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』

期間:2023年11月15日 - 26日
主催:公益財団法人新国立劇場運営財団、独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁
共同制作:フィンランド国立歌劇場、テアトロ・レアル
制作:新国立劇場

指揮:大野和士
演出:ピエール・オーディ
美術:アニッシュ・カプーア
衣裳:ヴォイチェフ・ジエジッツ
照明:ジャン・カルマン
舞台監督:髙橋尚史

出演:
シモン・ボッカネグラ:ロベルト・フロンターリ
アメーリア(マリア・ボッカネグラ):イリーナ・ルング
ヤコポ・フィエスコ:リッカルド・ザネッラート
ガブリエーレ・アドルノ:ルチアーノ・ガンチ
パオロ・アルビアーニ:シモーネ・アルベルギーニ
ピエトロ:須藤慎吾
隊長:村上敏明
侍女:鈴木涼子

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

WRITER PROFILE

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小田原のどか Nodoka Odawara

彫刻家、評論家、研究者。筑波大学大学院博士課程修了、芸術学博士。主な展覧会に「近代を彫刻/超克するー津奈木・水俣編」(個展、つなぎ美術館、熊本、2023年)、あいちトリエンナーレ2019など。主な単著に『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021年)、『モニュメント論:思想的課題としての彫刻』(青土社、2023年)など。

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